【解説059】近代の日本教育制度。学制(1872)→教育令(1879)→改正教育令(1880)→諸学校令(1886)

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開国〜明治維新後の、急ピッチで教育制度を整えていく様子をまとめる。

学制(1872年、明治5年)

廃藩置県など中央集権化を進めていた明治政府は文部省を1871年(明治4年)に設置、その翌年1872年(明治5年)、フランスの教育制度をもとに「学制」を発表。学制は学校制度に関する明治政府の宣言書であったため、「被仰出書(おおせいだされしょ)」と言われることも。またこの時期に師範学校が設置され、教員として赴任したアメリカ人のスコット(1843-1922)による一斉教授法が広まっていった。制度はフランス、教授法はアメリカからと、良さそうな物は部分的にでもいろんなところから取り入れたのである。急いで国づくりを進めていった明治政府らしさが表れている。

新しい学校制度である学制は、急に整えたということもあり、地方の実情を無視している面があった。そのため、民衆の反発を招き、次の教育令へとつながっていくことになる。



教育令(1879年、明治12年)

自由教育令とも呼ばれる、ゆるい教育令である。アメリカ人のマレーによって立案。地方の反発を受けて、就学期間も1年間に4ヶ月ほどでOKというゆるさに設定したが、就学率の低下につながり、早々と次の改正教育令が登場することになる。

改正教育令(1880年、明治13年)

教育令がゆるすぎて、まさかの1年での制度変更。国の権限を強化したため、干渉教育令とも言われる。

諸学校令(1886年、明治19年)

この前年1885年に内閣制度が創設。初代の文部大臣に森有礼(もりありのり)が就任した。教育問題に強い関心を示していた森有礼は、1886年に小学校、中学校令、帝国大学令、師範学校令という学校種ごとに対応した法令(まとめて諸学校令)を制定して教育改革に取り組んだ。この諸学校令は、勅令(議会を経ずに直接法的拘束力を持つ法律で現在には無い形式)によって制定された。

小学校令はその後も何度か改定され、授業料徴収の禁止、義務教育期間が6年になるなど教育制度が整備されていった。

以上の4つの変化をまとめると、

①学制(1872)→②教育令(1879)→③改正教育令(1880)→④諸学校令(1886)

②でゆるーくなった以降はだんだん国家の統制が強くなってきているという流れになっている。

では演習。



(演習)

次の文を正誤判定せよ。

(1) 1872年に、「学事奨励に関する被仰出書」が太政官から布告され、次いで文部省から、中央集権的なフランスの教育制度を参考にし、一般行政区から独立した学区制を採用した近代的教育法規である「学制」が頒布された。

→(正)あっている。学区制によって全国は8大学区に分けられ、各大学区は32中学区、さらに各中学区は210の小学区に区分され、中学区には中学校、小学区には小学校が置かれた。

(2) 1879年に、既に施行されていたイギリスの義務教育制度を模範として、田中不二麿によって 起草された「日本教育令」を基に、中央集権的・画一的な教育制度を打破して、地方分権的な教育制度を採用した、「教育令」が制定公布された。

→(誤)イギリスではなくアメリカのマレーによって、地方分権的な教育制度を採用した。ちょっと難しい。

(3) 1886年に、初代文部大臣の森有礼の教育改革構想により、オランダ王国憲章に掲げられている教育の自由の精神を取り入れた、小学校令・中学校令・師範学校令・帝国大学令といった「諸学校令」が制定され、日本の教育の発展の基盤となった。

→(誤)これも判定が難しいかもしれない。森有礼は国の働きかけを強くした人物で「教育の自由の精神」という言葉に違和感が持てればOK。なお、オランダ王国憲章は1954年に作られたもので時代が全然違うことからも判断できるが、それは教員採用試験で知っておくべき知識ではない。

日本教育史は今回までの4記事(解説056〜059)で終わりとなります。次回からは教育心理を扱います。

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